教育学部にいたことの価値
はじめましてのはてなブログです。
一応簡単に自己紹介を書いておくと、
わたしはこんど26歳になる年齢で、今は大学院のM2で考古学を専攻しています。
就職先は中小建設コンサルタントの埋蔵文化財課に決まりました。
中学生ぐらいから携帯電話を持ち始め、前略プロフからはじまり、CROOZ、TiPs!、mixi、エムブロ、、、などなど、twitterやinstagram、Facebookが始まる前からそれなりにSNSやブログに親しんできた世代なので、情報公開することに抵抗がないです。
かんたんに身バレする自信があります。
でも、身バレしても、ゆとりでも、会議で発言しなくても、、、心の中に言いたいことはあって、
わざわざ時間をとってだれかに聞いてもらうまでもないけど、こんなふうに考えてるんだよってことは結構あったりするので、そんなことを思いついたときに書いていこうかなと思います。
今日は教育学部にいたことは「じぶんにとってどんな時間だったんだろう?」と最近思いを巡らすことがおおいので書きたいと思います。
わたしはいま文学部の大学院にいて考古学を専攻していますが、学部生のときは教育学部の社会科にいました。
わたしのなりたくない職業の第一位はいまも昔もかわらず「教師」です。
先生がきらいとかそんな学生ではなかったし、むしろたくさん質問して先生に媚びを売るタイプの学生だったのですが(おかげさまで成績は良かったです)、人に説明することがとにかく苦手で、教師とか講師とかぜったいやりたくない!と思っていました。
それなのに一応考古学があるからと第3志望ぐらいで受けたら、第1,2志望は不合格で教育学部に入ることになってしまったのでした。
せっかくだからと教職の授業もとっていましたが、とにかく人前に立つことが苦手で、座学の単位は全部とっていたものの模擬授業ができずに断念してしまいました。(いまはちゃんと人前で研究発表してます。大丈夫です。)
わたしの大学は教育学部でも教職をとらなければ、教育学をやることはなく、授業も楽しかったので、とくにいやになることはなかったのですが、最終的にはやっぱり考古学をちゃんと学んでおきたいなということで文学部の大学院を目指すことにしました。
でも文学部に入学してみてわかったことは、わたしは教育学部の雰囲気があっている、ということでした。
考古学は好きだし楽しいけれど、なんというか、とても専門的なんですよね。文学部はわりとなにか特定のものが好きで入ってくる人がおおいので、ある学問分野に特化した研究者を養成しようという雰囲気がつよいように思います。
教育学部の場合はどちらかというと社会学や歴史学に関連する、もしくはそこから派生する問題について知って、そこから何が考えられるかを考えようという風潮がつよいので、広く浅くいろんな事例を知ることに重きを置いている気がします。
それは多様な価値観を受け入れるということにかなりつながる気がしていて、教育の本質である「他人のために」という点に影響を与えているように思います。教育は「教える人」と「教えられる人」の二者がいてはじめて成り立つもので、互いが互いを認め、受け入れていなければ成り立たないものだと思っています。
でも、そこで相手を否定したり、見下したりしてしまっていては関係は成立しないですよね。
集中力がないから勉強ができないだとか、お金があるからとかないからとか、、まあまあ世の中にはさまざまな偏見とか呪いとかがあると思います。
でもそういう呪いを破棄する。
それが教育学部で学んだことなんだと思います。
わたしにその雰囲気があっていると思ったのは、自分が受け入れてもらうことや他人を受け入れることに関してかなり悩んでいた時期があるからだと思います。
だれかに認められたくて頑張っている人はたくさんいると思います。
それがどんな努力でも、受け入れたいと思うのは教育学部にいたからこそ思うことです。
考古学のことも大好きですが、仕事やこれから生きていくうえで大事にしたいことは教育学部で学んだことのほうが大きいです。